魔導書工房の見習い日誌
10話 書物魔法
どこから来たのか、言えばゆきは何かを察するだろう。そして軽蔑するかもしれない。怖がって離れていくかもしれない。
本当は正直に答えるのが誠実だ。それでも千尋は躊躇ってしまう。
「教えた方がいいですか」
「いずれはお聞きしたいです。でも、今日はもっと聞きたい話があったのでは?」
問われて、千尋はハッとした顔になってから項垂れた。
「あー……そうですね。というか、水無月さんが聞いてほしい話だったんじゃないですか、確か。遮ってすみません」
「謝られてしまうと話しだしにくいです」
まるで困ったところなどない様子でゆきが答える。千尋は申し訳なさと気まずさで表情を引き攣らせながら、次に続ける言葉を考えていた。だが、それより早くゆきがにこりと笑った。冗談ですよ、と言い出しそうな顔で彼女は言う。
「話しやすいように、質問してみてください」
「質問」
「はい」
眉間に皺を寄せながら考えて、千尋は唸るように一言絞り出した。
「……『書物魔法』って、なんですか?」
ゆきは及第点を与える先生のように微笑んで、一拍おいてから答える。
「書物魔法とは、そうですね、このパンフレットに掛かった魔法もそうです。紙に、インクで、文字や紋を描く。その組み合わせで魔法を構成するという手法です。石や木材、金属に同じ魔法を施すことはまた別の名前で呼ばれることもありますが、『何を描くか』というデザインに関しては書物魔法と分類するのが一般的――という事情は措いて。生み出すところをお見せします」
言うや、ゆきは自身の鞄を再び開いた。鞄は革製のサッチェルバッグで、二つのボタンをぱちぱちと開けて中から黒い艶消しのファイルと、布をくるくると巻いたペンケースを取り出す。
黒いファイルは中が見えないが、先程パンフレットを探ったときと同じような手つきで、ゆきは一枚の紙を取り出す。ノートくらいの大きさで、厚みはさほどないが表裏はつるつるとしていた。
「コート紙といいます。チラシやパンフレット、雑誌の表紙に使われることが多い紙ですね。インクが染みこまないので発色がよく、印刷に適しているとされますが、他方ペン筆記などには不向きです。チラシにメモはしづらいですよね」
「ああ確かに……。あの、もしかして水無月さんは、この魔法の仕組みがわかるんですか?」
ずっと気になっていたことを聞いてみれば、ゆきは一拍おいて「おそらく」と口にした。
「理解したかどうか、これから確かめます」
ペンケースを開くと、中には万年筆やつけペン、定規、鉛筆や鋏まで、ありとあらゆる筆記具が収まっているようだった。雪車浦の商店にあった文具売り場では見たことがないものばかりだ。
ゆきは真白なフェルト芯の入ったペンを引き抜き、蓋を取ってペン先の細さを軽く確かめる。そして思い出したように、鞄から革製のハードケースと小さな正方形の紙の束を出した。彼女の鞄から飛び出す物ひとつひとつが、千尋の未知に繋がっている。心臓が徐々に速くなるのを感じながら、千尋はゆきの指先から目を離せずにいた。
ハードケースの中からはガラスのフラスコやスタンドがバラバラの状態で出てきて、ゆきがそれを手際よく組み立てる。すると、それはサイフォンとよく似た形になった。下側のフラスコを温める熱源の代わりに、ゆきは正方形の紙を一枚束からちぎり取って、テーブルに置いた。
「千尋君、これからインクを作ります」
「ここで?」
「はい。病室でインクを作るのは初めてです。見つかったら怒られてしまうかもしれませんね」
「……それは、困るんですけど」
「見つからないように、こっそりします」
微笑んで、ゆきは作業に戻った。
「この紙には、インクに色をつけるための魔法が描かれています。このサイフォンは熱の代わりに魔法を敷いて、透明な精製液に鉱石や植物などから色を移す仕組みです」
「え、手作り?」
「市販のインクを使うこともあります。市販の書物魔法用インクは成分バランスが一定で、品質も安定しているので基本的にインクは職人やメーカーの生産するものを使いますね。ですがこのサイフォンの利点は、少量であれば好みの配合でインクを作り出せること。あとは、見ていて楽しいこと」
最後の言葉に千尋は少し笑った。ゆきはガラスボトルに入った透明な液を下のフラスコに注いでいる。その液が「精製液」だった。水のように見えたが、それは時折ちかちかと煌めくので、ただの水でないことがわかる。
「これは世界樹から採取した樹液を加工して作ってあります。この液体そのものに魔力が宿っていて、これを使って描いた紋章や言葉は魔法になる。ですが透明では描くのに不便なので、色を付けます。これが書物魔法の基本です」
それから小さな天秤で、青い石や鉄粉に似た真っ黒な粉をそれぞれ量り、上のガラスボウルに一緒くたにして入れた。
「いま入れたものの解説は、今回は割愛します。ですが、色を付ける他に『魔力に属性を与える』素材も入れたことだけお伝えしましょう」
「魔力に……属性? 水とか、炎とか……」
ファンタジー小説の受け売りを口にすれば、ゆきは笑みと共に頷いた。
「そうです。更に細かに『月のない夜』や『冬の陽を浴びた楡』などと定義していくブレンドもありますが、基本的には四大元素から考えます。火・水・風・土……。こうした属性は人が魔法を使う際に、直接魔力に付与して身体から出すことで魔法とするのが一般的ですが、書物魔法はすべて道具に託します。紙に、インクに、筆記具に。ですから、人が感覚的に使い分ける魔力の性質に少し敏感になって名前を付けたがるのは、書物魔法士の職業病ですね」
言いながら、ゆきはフラスコの下に敷いた正方形の紙を小さな金色の棒で三回叩いた。コン、コン、コン。すると、だんだんとフラスコの中の精製液が揺れ始めて、湯が湧いたようになる。
「これは魔法の効果で、実際に加熱しているわけではありません。下のフラスコに軽く触れてみてください」
恐る恐る触れてみれば、フラスコはひんやりとしていた。ガラス越しに液体の揺れる振動が指先に伝わる。
「さて、あとは放っておくだけです。インクができるまでに少しだけお話をしましょう。魔法の効果を持つ紋章について。今回はノートもペンも要りません、どうぞ気楽に聞いてください」
書物魔法の話をするゆきは、千尋でもわかるほどに楽しそうにしている。世界にあるという魔法たちは、千尋の思い描いた空想とは違っていることが多いけれど、魔法の世界へ導くゆきは物語の魔法使いに少しだけ似ていた。どうして? 何をするの? そう問いたくなるような言葉に充ちていて、視線は彼女の指先から離れない。初めて虹を見た子供のように、千尋はゆきの魔法の行く末に夢中になった。
「たとえば、1+1も2×1も解は同じく2であるように、同じ効果を引き出す魔法は複数ある場合が大半です。先程、パンフレットに掛かった魔法は印刷に不向きなインクを使うと言いましたが、では印刷に不向きなインクとは何か予想をしてみていただけますか?」
「予想って言われても……じゃあ、インク詰まりを起こしやすいから……機械では使いにくい、とか」
「ええ、そういうことです。でも印刷機を使って量産する方法を探りたいとき、大まかに二つの道筋が作れますね」
はい、どうぞ。と言われたようにゆきの目に見つめられて、千尋は渋々答えた。
「インク詰まりを起こしにくい機械を使うか、別のインクを使うか」
「正解です。そして、インクを変えて、紙も変えるのならば皺寄せがいくのは『何を描くか』ということになります。そこで出てくるのが紋章ですね」
書物魔法は、筆記に使う道具や素材、そして描く内容によって構成される。それらの調整によって、たとえ元の魔法と違う道具やインクを使っていても、同じ結果をもたらすことは不可能ではない。
「元の魔法と同じ紋章を使うのでは上手くいかないでしょう。他の条件がずれているのですから」
千尋が頷くと、ゆきは満足げに笑みをつくった。
「1+1の記号を×に変えたとして、解は1。でもこの記号で1+1と同じ解を導きたい、そしたら数字を変えることになるでしょう」
「じゃあ、水無月さんはパンフレットの中にその紋章を見つけたんですね」
「仰る通りです。これから、コート紙にその紋章を描いてみます。ですがそれだけでは、何の幻影を作り出すか決まっていない状態のままです。千尋君、この魔法を完成させるために教えてください。何か見たいものはありますか?」
「見たいもの……」
「この紙の上に、あなたの望む幻を作ります。見たい景色、見たい動物、見たい花。なんでも構いませんよ。……どうでしょうか」
問われて、千尋は逡巡の末に「雪」と口にした。雪は窓の外でも降っている。それとは違う雪が見たい。
本当は正直に答えるのが誠実だ。それでも千尋は躊躇ってしまう。
「教えた方がいいですか」
「いずれはお聞きしたいです。でも、今日はもっと聞きたい話があったのでは?」
問われて、千尋はハッとした顔になってから項垂れた。
「あー……そうですね。というか、水無月さんが聞いてほしい話だったんじゃないですか、確か。遮ってすみません」
「謝られてしまうと話しだしにくいです」
まるで困ったところなどない様子でゆきが答える。千尋は申し訳なさと気まずさで表情を引き攣らせながら、次に続ける言葉を考えていた。だが、それより早くゆきがにこりと笑った。冗談ですよ、と言い出しそうな顔で彼女は言う。
「話しやすいように、質問してみてください」
「質問」
「はい」
眉間に皺を寄せながら考えて、千尋は唸るように一言絞り出した。
「……『書物魔法』って、なんですか?」
ゆきは及第点を与える先生のように微笑んで、一拍おいてから答える。
「書物魔法とは、そうですね、このパンフレットに掛かった魔法もそうです。紙に、インクで、文字や紋を描く。その組み合わせで魔法を構成するという手法です。石や木材、金属に同じ魔法を施すことはまた別の名前で呼ばれることもありますが、『何を描くか』というデザインに関しては書物魔法と分類するのが一般的――という事情は措いて。生み出すところをお見せします」
言うや、ゆきは自身の鞄を再び開いた。鞄は革製のサッチェルバッグで、二つのボタンをぱちぱちと開けて中から黒い艶消しのファイルと、布をくるくると巻いたペンケースを取り出す。
黒いファイルは中が見えないが、先程パンフレットを探ったときと同じような手つきで、ゆきは一枚の紙を取り出す。ノートくらいの大きさで、厚みはさほどないが表裏はつるつるとしていた。
「コート紙といいます。チラシやパンフレット、雑誌の表紙に使われることが多い紙ですね。インクが染みこまないので発色がよく、印刷に適しているとされますが、他方ペン筆記などには不向きです。チラシにメモはしづらいですよね」
「ああ確かに……。あの、もしかして水無月さんは、この魔法の仕組みがわかるんですか?」
ずっと気になっていたことを聞いてみれば、ゆきは一拍おいて「おそらく」と口にした。
「理解したかどうか、これから確かめます」
ペンケースを開くと、中には万年筆やつけペン、定規、鉛筆や鋏まで、ありとあらゆる筆記具が収まっているようだった。雪車浦の商店にあった文具売り場では見たことがないものばかりだ。
ゆきは真白なフェルト芯の入ったペンを引き抜き、蓋を取ってペン先の細さを軽く確かめる。そして思い出したように、鞄から革製のハードケースと小さな正方形の紙の束を出した。彼女の鞄から飛び出す物ひとつひとつが、千尋の未知に繋がっている。心臓が徐々に速くなるのを感じながら、千尋はゆきの指先から目を離せずにいた。
ハードケースの中からはガラスのフラスコやスタンドがバラバラの状態で出てきて、ゆきがそれを手際よく組み立てる。すると、それはサイフォンとよく似た形になった。下側のフラスコを温める熱源の代わりに、ゆきは正方形の紙を一枚束からちぎり取って、テーブルに置いた。
「千尋君、これからインクを作ります」
「ここで?」
「はい。病室でインクを作るのは初めてです。見つかったら怒られてしまうかもしれませんね」
「……それは、困るんですけど」
「見つからないように、こっそりします」
微笑んで、ゆきは作業に戻った。
「この紙には、インクに色をつけるための魔法が描かれています。このサイフォンは熱の代わりに魔法を敷いて、透明な精製液に鉱石や植物などから色を移す仕組みです」
「え、手作り?」
「市販のインクを使うこともあります。市販の書物魔法用インクは成分バランスが一定で、品質も安定しているので基本的にインクは職人やメーカーの生産するものを使いますね。ですがこのサイフォンの利点は、少量であれば好みの配合でインクを作り出せること。あとは、見ていて楽しいこと」
最後の言葉に千尋は少し笑った。ゆきはガラスボトルに入った透明な液を下のフラスコに注いでいる。その液が「精製液」だった。水のように見えたが、それは時折ちかちかと煌めくので、ただの水でないことがわかる。
「これは世界樹から採取した樹液を加工して作ってあります。この液体そのものに魔力が宿っていて、これを使って描いた紋章や言葉は魔法になる。ですが透明では描くのに不便なので、色を付けます。これが書物魔法の基本です」
それから小さな天秤で、青い石や鉄粉に似た真っ黒な粉をそれぞれ量り、上のガラスボウルに一緒くたにして入れた。
「いま入れたものの解説は、今回は割愛します。ですが、色を付ける他に『魔力に属性を与える』素材も入れたことだけお伝えしましょう」
「魔力に……属性? 水とか、炎とか……」
ファンタジー小説の受け売りを口にすれば、ゆきは笑みと共に頷いた。
「そうです。更に細かに『月のない夜』や『冬の陽を浴びた楡』などと定義していくブレンドもありますが、基本的には四大元素から考えます。火・水・風・土……。こうした属性は人が魔法を使う際に、直接魔力に付与して身体から出すことで魔法とするのが一般的ですが、書物魔法はすべて道具に託します。紙に、インクに、筆記具に。ですから、人が感覚的に使い分ける魔力の性質に少し敏感になって名前を付けたがるのは、書物魔法士の職業病ですね」
言いながら、ゆきはフラスコの下に敷いた正方形の紙を小さな金色の棒で三回叩いた。コン、コン、コン。すると、だんだんとフラスコの中の精製液が揺れ始めて、湯が湧いたようになる。
「これは魔法の効果で、実際に加熱しているわけではありません。下のフラスコに軽く触れてみてください」
恐る恐る触れてみれば、フラスコはひんやりとしていた。ガラス越しに液体の揺れる振動が指先に伝わる。
「さて、あとは放っておくだけです。インクができるまでに少しだけお話をしましょう。魔法の効果を持つ紋章について。今回はノートもペンも要りません、どうぞ気楽に聞いてください」
書物魔法の話をするゆきは、千尋でもわかるほどに楽しそうにしている。世界にあるという魔法たちは、千尋の思い描いた空想とは違っていることが多いけれど、魔法の世界へ導くゆきは物語の魔法使いに少しだけ似ていた。どうして? 何をするの? そう問いたくなるような言葉に充ちていて、視線は彼女の指先から離れない。初めて虹を見た子供のように、千尋はゆきの魔法の行く末に夢中になった。
「たとえば、1+1も2×1も解は同じく2であるように、同じ効果を引き出す魔法は複数ある場合が大半です。先程、パンフレットに掛かった魔法は印刷に不向きなインクを使うと言いましたが、では印刷に不向きなインクとは何か予想をしてみていただけますか?」
「予想って言われても……じゃあ、インク詰まりを起こしやすいから……機械では使いにくい、とか」
「ええ、そういうことです。でも印刷機を使って量産する方法を探りたいとき、大まかに二つの道筋が作れますね」
はい、どうぞ。と言われたようにゆきの目に見つめられて、千尋は渋々答えた。
「インク詰まりを起こしにくい機械を使うか、別のインクを使うか」
「正解です。そして、インクを変えて、紙も変えるのならば皺寄せがいくのは『何を描くか』ということになります。そこで出てくるのが紋章ですね」
書物魔法は、筆記に使う道具や素材、そして描く内容によって構成される。それらの調整によって、たとえ元の魔法と違う道具やインクを使っていても、同じ結果をもたらすことは不可能ではない。
「元の魔法と同じ紋章を使うのでは上手くいかないでしょう。他の条件がずれているのですから」
千尋が頷くと、ゆきは満足げに笑みをつくった。
「1+1の記号を×に変えたとして、解は1。でもこの記号で1+1と同じ解を導きたい、そしたら数字を変えることになるでしょう」
「じゃあ、水無月さんはパンフレットの中にその紋章を見つけたんですね」
「仰る通りです。これから、コート紙にその紋章を描いてみます。ですがそれだけでは、何の幻影を作り出すか決まっていない状態のままです。千尋君、この魔法を完成させるために教えてください。何か見たいものはありますか?」
「見たいもの……」
「この紙の上に、あなたの望む幻を作ります。見たい景色、見たい動物、見たい花。なんでも構いませんよ。……どうでしょうか」
問われて、千尋は逡巡の末に「雪」と口にした。雪は窓の外でも降っている。それとは違う雪が見たい。
2023.7.15更新分はここまでです。ありがとうございました。
お知らせが同じ文面で埋まっていくのもなあと思うので、そのうち何とかします。